アレハンドロ・ホドロフスキー監督 エンドレス・ポエトリーを見た

見た。アレハンドロ・ホドロフスキー監督の自叙伝的小説「リアリティのダンス」の映画の続編。

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臨死体験のような自叙伝

この映画を見て、ホドロフスキー監督が死ぬ前に臨死体験として見る映像はこのようなものなのではないか、という気がした。臨死体験の中には、これまでの人生が映画のように映され、自身が観客となって追体験するというものがある。この種の臨死体験とは、自分の自叙伝を死の直前に自分だけが読むようなものなのかもしれない。マジック・リアリズムの演出も、時折、老いた自分が現れて若き日の自分に語りかける様子も臨死体験と考えれば、なんとなくしっくりくるのである。

最後に両親と和解するシーンは、過去を自分の都合の良いように美化しているようにも見える。批判的な書き方をしたが、人間の脳とはそのようなものではないかと思う。つらい出来事をそのまま受け入れれば、心を病んでしまう。誰もが、どこかでそういった出来事を忘却したり、美化しているのではないか。ましてや、死の直前に自分の人生を受容するためにそれを行うのは、当たり前のことではないだろうか。

自分の人生を生きること

全体を通して、主人公は自分の人生を生きることを追求する。親の言いなりの日々を過ごし、親という他人の人生を生きていた主人公。詩と出会い、詩人になりたいと思った日から、自分の人生を歩みはじめる。サンティアゴの芸術家たちとの交流を通して、徐々に自分の人生を生きはじめるが、それでも、親の期待に応えなければいけないのではないか、という気持ちが心のどこかにひっかかる。物語の最後の最後まで引きずるその気持ちも、両親と別れる際に向き合い、両親が息子の課題を他人の課題として切り捨てた時点で消え去る。この親子の関係、家族が再構築されるクライマックスは、この物語の最大の見せ場としてふさわしく、心を揺さぶられる。

人生の意味と生の肯定

生きることの虚しさや意味に苦しむ若き日の自分の前に、老いた自分が現れる。そして、生きる意味を問われ、ただ「生きろ」とだけ繰り返し語り続ける。

宇宙の長い時間の流れの中で、人の生命は海の中で浮かび上がる一粒の泡のように、ほんの一瞬だけ存在するちっぽけなものかもしれない。それを虚しいと捉えることもできるが、何もないところから生まれてきたという事実に目を向け肯定的に捉えれば、虚無から何かを形作る力があると考えることもできる。一般的な人生の意味はなく、生きる過程で、その力を行使して生きる意味を作り上げ、自分自身にそれを与えていかなければならない。「生きろ」という言葉の繰り返しには、そのようなメッセージがあるのではないかと思う。